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1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その5)

2005年12月21日

最終回は日本のバブル発生と崩壊までを説明いたします。

9.バブル発生の原因(三) ブラックマンデーとバブル景気

1987年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場が過去最大の下落に見舞われました。当時2200ドル台だったNYダウ工業株平均は、10月19日の1日だけで-508ドル、率にして-22.6%の下げを演じたのです。1万ドルを超えている現在ならば1日で-2200ドルの値幅に相当するほどの暴落です。

これをきっかけに世界中の株式市場が一斉に急落し、日本でも10月20日(火)には日経平均株価が-3836円(-14.9%)の下げ幅を記録しました。この時の暴落によって世界全体の株式市場がこうむった損失額は1.4兆ドルにも達したとされています。これが歴史に名を残す「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」です。

ブラックマンデーがなぜ起こったのか、さまざまな解説が試みられています。直接的には株価が下落した時に損失を限定するプログラム売買が一斉に作動したとされていますが、それは結果であって原因ではありません。真の原因はやはりアメリカの双子の赤字にたどりつきます。

プラザ合意からルーブル合意を経て、アメリカは先進国と協調して不均衡の是正(双子の赤字の解消)のために努力を続けてきました。しかしその試みはすぐに具体的な成果をもたらすというものではありません。特に1987年はアメリカも景気がよかったために、ドル安で輸出は増えたのですが輸入も拡大してしまい、貿易赤字はなかなか減少しません。1987年のアメリカの貿易赤字は▲1703億ドルと史上最高額を更新し、経常収支も▲1540億ドルの赤字を記録しました。1987年末のアメリカの対外純債務額は▲3682億ドルに達しています。

1987年は先進国で協調的に金利が引き下げられた最後の年です。1月は西ドイツが公定歩合を3.5%から3.0%に引き下げ、2月には日本が5回目の公定歩合引き下げ(3.0%から2.5%)を行っています。しかし肝心のアメリカでは、ドル安を背景に再びインフレ懸念が広がるようになり、4月ごろから長期金利が上昇し始めました。

この年の8月11日にポール・ボルカー氏に代わって、FRBの新議長にアラン・グリンスパン氏が就任しました。グリンスパン新議長はボルカー前議長の採ったインフレ抑制のための引き締め政策を受け継ぐことを表明し、実際に就任から半月後の9月4日には、3年5カ月ぶりの公定歩合引き上げ(5.5%から6.0%)を実施しています。

アメリカの利上げから1カ月が経った1987年10月14日、8月の貿易収支額が発表され▲156億ドルを記録しました。この数字はマーケットの予想を大きく上回っており、世界中がドルの下落と金利上昇を再び強く懸念する事態となりました。折りしもこの時は、日本をはじめ他の先進国もアメリカと似たような状況にあり、どの国もそれまでの金融緩和政策を変更して金利引き上げを検討し始めています。そしてこの時期に、インフレに最も神経質な西ドイツが短期金利の引き上げに踏み切ったために、それがきっかけでルーブル合意の政策協調の枠組みにきしみが生じたとの憶測を招いて、ブラックマンデーという世界的な株価暴落につながったのです。

ブラックマンデーの直後、FRBは市場に十分な資金を供給することと宣言して、比較的短期間に株式市場の混乱を収めることに成功しました。金利引き上げを検討していた西ドイツも、ブラックマンデーが発生したことによって利上げを見送り、87年12月4日には再び公定歩合の追加的な引き下げ(0.5%)を行っています(西ドイツの利上げは翌1988年6月に実施されました)。

しかし日本は最大の経常収支黒字国でもあり、アメリカ議会からの批判の矢面に立たされていたこともあって、金融引き締めへの転換が先進国の間では最も遅れました。日銀は1989年5月末になってようやく公定歩合を0.75%引き上げるのですが、これは西ドイツの利上げから1年近くが経過しています。

史上最低の金利水準、好景気の持続、円高による過剰流動性の発生、過熱する土地投機・株式投機、という経済情勢にあって、当時としては過去最低の2.50%という公定歩合が1987年2月から1989年5月まで2年3カ月も続けられたのです。この時の日本の景気は、1986年12月に底入れして、1991年4月まで53カ月にわたって拡大局面が続いていました。土地や株価は大幅な値上がりを続けていましたが、卸売物価は円高によって輸入品の価格が抑えられていたこともあって、表面的にはインフレが起きていなかったことも低金利が長期化した理由のひとつです。しかしそれ以上に、アメリカへの配慮が政治的にも強く働いて利上げが遅れたと言ってよいでしょう。

歴史に「もし」はありませんが、もしこの時期に日本が西ドイツと同じようにもう少し早く金融引き締めに転換していたら、日本の土地と株式を巡る投機熱はあれほどまで膨らむことはなかったのではないかと考えられます。しかし同時に、もし日本が早めに利上げを行っていたら、第2のブラックマンデーが起きていたかもしれません。それほどまでに1987年後半の国際金融界は緊迫した日々を送っていました。

日本の地価の高騰はブラックマンデーをほとんど問題視せずに続きました。公示地価での東京圏の商業地は、前年比の上昇が極めて大きかったために(1988年は+61.1%)1989年は+3.0%にとどまっています。しかし全国の商業地は1988年の+21.9%に続いて1989年も+10.3%上昇しました。同時に株式市場も「円高、金利低下、原油安」のトリプルメリットを背景に、ブラックマンデーの後も先進国ではいち早く回復。日経平均株価は1987年末の2万1564円が、1988年末には3万0159円、そして1989年末には3万8915円の最高値に向かって突き進んでゆくのです。

地価と株価の高騰をもたらした原動力は、日本の銀行業界に伝統的にあった土地担保融資に基づく信用創造メカニズムです。土地を担保におカネを借りて、その資金で新たに土地や株式を買います。新たに買った土地(株式)が値上がりすることを当て込んで、それを担保にしてまたおカネを借りて土地(株式)を買います。そのうちに最初に買った土地が値上がりしているので、値上がり分を担保におカネをまた借りて土地を買う、という無限の連鎖が80年代末の日本では横行しました。借金の返済は後回しにされ、おカネを貸す方も借りる方も、とにかく値上がりする前にできるだけたくさんの土地(株式)を買うことに猛進しました。

上場企業は銀行からの借り入れと同時に、株式市場で直接資金を調達する方法を選ぶことができます。高騰を続ける株式市場で公募増資や転換社債の発行を行って資金を調達し、その資金を使って株式で運用する。そうするとまた株価が上がるので、さらに追加で公募増資を行うという、こちらも無限連鎖のような錬金術が広がってゆきました。

土地バブルの頂点における逸話を集めればいくらでも出てきます。東京銀座4丁目の地価は1坪1億1200万円になりました。マンションは買えば値上がりするのが当然で、新規物件の抽選には人々が宝くじ感覚で参加しました。ゴルフ会員権や絵画も大幅に値上がりし、日本全体の土地の総額は1600兆円を超えてアメリカ全土の2倍にまでなりました。高級ブランド品や高級車が飛ぶように売れ、企業は大学卒の新入社員の確保に奔走しました。今から思えばあらゆる異常な出来事がごく日常的に起こっていました。

借金に借金を重ねる運用スタイルは、土地や株価が値上がりし続いている間はうまく回りますが、ひとたびそれらが値下がりに転じると、ダメージが何倍にも増幅されます。非常にリスクの高い運用方法ですが、当時の日本では誰もが値下がりする時のことを考えていませんでした。ブームというものは恐ろしいもので、80年代末はそれほどまでの強気心理が日本中を覆っていたのです。1989年3月末時点で、銀行やノンバンク、住宅金融専門会社が貸し出した不動産業界向けの融資残高は200兆円にも達しましたが、これは当時の名目GDPの40%にものぼります。

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