1. 金融そもそも講座

第109回「地政学的リスクの考え方」

ウクライナ情勢が緊迫化する中で、市況解説記事で盛んに使われている言葉がある。「地政学的リスク」(または地政学リスク)だ。そもそもこの言葉は何を指すのか、そしてマーケットはなぜこの言葉に敏感に反応するのか。今回はこの問題を取り上げる。

最初に使ったのはFRB

この言葉、マーケットの世界で古くから使われているように思えるが、実は比較的新しい。21世紀に入ってから普及した言葉だ。最初に使ったのは米国の中央銀行であるFRBだといわれる。2002年9月24日の、FOMC(連邦公開市場委員会)会合に関する議事録に初めて「geopolitical risk」(またはrisks)として数多く登場する。この議事録には「geopolitical(地政学的)」を使った単語として、「geopolitical concern(~懸念)」「geopolitical event(~出来事)」「geopolitical area(~地域)」「geopolitical expert(~の専門家)」などが登場する。まさに「geopolitical」のオンパレードだ。それには理由がある。

「geopolitical」は元々「geopolitics」からの派生語だ。後者は「地政学」と訳される。「地政学」とは一般的に「地理的な位置関係が政治、国際関係に与える影響を研究する学問」と定義される。当時の世界は、米国が航空機を使った史上最悪のテロ攻撃(NYのワールドトレードセンターやワシントンの米国防総省)を受けた「9.11」(01年)の後で、米国、中東を中心的地域として非常に緊張していた。当時のニュースには以下のようなことがあった。

2002年
1月29日
当時のブッシュ大統領が一般教書演説でイラクを非難する「悪の枢軸」発言を行う
2002年
8月26日
チェイニー米副大統領が「イラクの核脅威は、予防的攻撃の正当性を証明している」と発言
2002年
9月24日
英国下院でブレア首相が「イラクは、化学兵器と生物兵器を保有している。イラクのミサイルは45分間で展開できる」と断言
2003年
3月20日
米国が主体となり英国やオーストラリアなどの有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由として「イラクの自由作戦」の名の下にイラクに侵攻

9.11ショック

「9.11」が米国のマーケットに与えた影響はとても大きかった。前日9月10日のダウ工業株30種平均の引値は9,605.51ドル。その後一週間以上NY証取は閉鎖され、取引再開となった17日にはザラ場で8,883.4ドルまで下落する。一方、当時のドル・円相場は9月10日は121円台だったが、翌日には118.5円まで円高・ドル安になった。米国の金融市場は非常に不安定だった。

こうした時代背景の中で「geopolitical risk」という言葉は生まれたのである。だから「geopolitical risk」と聞くとマスコミもマーケットも身構える。今でもそうだ。「世界的な大事件」のイメージである。私はこの言葉をFRBに持ち込んではやらせたのは当時の議長であるグリーンスパンだったのではないかと推測している。なにせ彼は「irrational exuberance(根拠なき熱狂)」(96年12月5日に使用)以来、次々に目新しい言葉を議会証言、講演などで使用し、それをFRB内、そしてマーケットで広く使われる言葉にしてきたからだ。彼としては「geopolitical risk」という単語に以下のような複雑なインパクトを詰め込み、一つの概念にしたのだと思う。

  • 1. それが米国のマーケット(株、債券、商品など)に与えるショック
  • 2. また消費者のマインドを通じて経済全体に与える影響
  • 3. 石油など重要資源の米国への供給状況の変化

つまり、この言葉が生まれた時代背景を併せて考えると、「地政学的リスク」とは「ある特定地域の政治的・軍事的・社会的緊張の高まりが、時には世界全体、時には特定(関連)地域の経済や市場の先行きを不透明にすること」を指す、と言える。中東は世界の燃料庫だから、そこの「geopolitical risk」は常に日本にとっても重大事だった。ちなみに、今の日本の「地政学的リスク」は尖閣などを巡る安全保障である。

マスコミ視点とマーケット視点

今回のウクライナ情勢も十分「geopolitical risk」と呼べる。冷戦終結、ソ連邦崩壊後の欧州の地図を塗り替える事態が起きるかもしれないのだ。海軍基地(セバストポリ)がありロシア系住民が6割を占めるクリミア半島を、親欧米のキエフの新政権から遠ざけることをロシアは諦めないだろう。既に大規模な“偽装軍”を派遣している。先にあるのは(ウクライナからの)クリミアの実質的独立、または(ロシアによる)併合である。確かにこれは世界史的な事件だ。

しかし今回のウクライナ危機でもそうだが、投資家は「地政学的リスク」に相当する危機が起きたときに気をつけないといけないことがある。それは、「危機は必ずプレイアップされる」、つまり「煽(あお)られる」ということだ。例えば今回も「冷戦の再燃」「最後通告」などの大きな見出しが日本の新聞では躍ったし、海外の新聞でも「on the brink of war(戦争の瀬戸際)」などの表現が見られた。ある程度の「煽り」はマスコミの使命でもある。読者に印象深く伝えなければならないからだ。

時に概念的で情緒的なそうした報道とは別に、投資家は「では実際に自分が参加しているマーケット、それに日本経済、世界経済にどの程度のインパクトか」と自分の頭で考えなければならない。「今の世界の枠組みはどのくらい実際に変化し、それによって世界経済は本当に危機になるのか」「武力衝突の可能性はどのくらいか」「それによってどのくらいのお金がどこからどこに動くのか」などなどだ。

確かに大きな事件で世界中のマスコミが騒いでいる。しかし一方では、「元々ロシア系の住民が多いクリミア半島は1954年以前はロシアの一部だったのだから、先祖帰りとも考えられないか?」「海外での戦争に疲れた米国は、騒ぎはするが軍を派遣するようなことはしないかもしれない」「欧州にはインパクトは大きいが、エネルギーをロシアに依存している限り、決定的な決裂はないのでは」「ロシアも西側との実際的な対立は最後には避けるかもしれない」などと考えることができる。

だとしたら、事件が起きて報道が氾濫している最中に起きる世界的な株安は「少し煽られているかもしれない」と考えることも可能だ。つまり投資家は「geopolitical risk」に対して常に冷静に考える姿勢を保ち、マスコミとマーケットの二つの視点を持たなければならないということだ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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